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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第3節 gossip [11]




 自室で教科書とノートを広げてはみたものの、なぜだか落ち着かずに片付けてしまった。
 こうやってボーっとする部屋があって、自分の部屋もあって寝室が別にあって、母親の部屋まである。キッチンも広くて廊下もベランダもあって、洗濯物は全部外に干せる。布団だって干せる。
 すごい贅沢だ。住み始めて数週間は、あまりに広くて寝付けなかった。
 時間はもう深夜。静寂が広がるのは当たり前の時刻だが、そうでなくてもここは静かだ。地上より八階。立地も、前のボロアパートが建っていた下町とは違う。
 静かと言うなら、以前の場所も静かだった。だが、雰囲気と言うか、静けさの質が違う。
 下町に漂うのは、何かが潜むような静けさだった。ドロっとした、(まと)わりつくような暗闇の中に、まるで妖怪でも隠れていそうな気味があった。変質者が出たとておかしくもないような場所もいくつかあった。
 だが、ここは違う。同じ夜でも澄んでいる。
 そうだ、この辺りの闇は澄んでいる。夜であっても、なんとなく透明感があって、少なくとも何かが潜めるような粘り気はない。
 同じ夜なのに。
 なぜだか、虚しさを感じる。
 こんな部屋をポンッと貸してくれるなんて、本当に瑠駆真ってどんなヤツ?
 金持ち連中の通う唐渓では、別に珍しくもないのだろう。だが、美鶴は中学はごく普通の学校に通っていた。瑠駆真ほどの金持ちがいれば、それなりに話題にはなったはずだ。
 父親はアラブ人で、仕事の関係で世界各国を忙しく飛び回っている。そんなような事を教えられたのは、入梅して間もない日曜日の午後だった。
 瑠駆真が部屋を貸した少女というのがどのような人間なのか? 心配した瑠駆真の父親に代わり、メリエムという人間がやってきた。黒人の、美しい女性だった。
 あの日は、ツバサに出会った日でもあった。

「唐渓のバカども相手に善戦してるようじゃない。私、そういうの好きだよ」

 民家の入り口で、彼女はあっけらかんと言ってのけた。そのサッパリとした印象を残してその場を去った。里奈の居る唐草ハウスへと―――
 僅か数ヶ月前の事なのに、ずいぶんと昔の事のような気がする。あれから、英語の成績を落としたり、霞流さんと京都へ行ったり、澤村優輝や里奈と思いがけず再会した。いろいろな事があってすっかり忘れていた。

 「あなたのその顔、とってもキュートね」

 メリエムは、美鶴にある程度の好感を持ったようだ。あれ以来会っていないから確信は持てないが、少なくとも第一印象は悪くはなかったようだし、毛嫌いされているようでもなかった。
 だが瑠駆真とは、あまり仲が良くないようだ。
 翌日、駅舎で迂闊にもメリエムの名前を出した時の、瑠駆真の不愉快そうな顔を思い出す。そこに、もっと昔の瑠駆真が重なる。
 自分を睨みつける理不尽な瞳。思い出したのはあの記憶だけ。中学時代、きっと自分は、瑠駆真とはあの時しか会話した事はないはずだ。
 瑠駆真は美鶴の事を、中学時代から想っていたと言っていた。だったらいつから?
 あの時も? エゴイストと罵ったあの時にはすでに、瑠駆真は自分へ想いを寄せてくれていたのだろうか?
 あの時美鶴は、結構勢い良く罵倒したはずだ。瑠駆真が美鶴に対して不快を感じるような事はあっても、想いを寄せられるような行動を取った覚えはない。だとしたら、美鶴が初対面だと思っている以前から、瑠駆真は自分を見ていたのだろうか?
 想いを寄せている異性に庇われたという事実が、瑠駆真の内に羞恥のような思いを湧きあがらせたのだろうか? 恥かしさゆえに、あのような剣呑な視線を美鶴へ向けたのだろうか?
 それとも―――
 そこでブンブンと頭を振る。
 瑠駆真がどうだろうと、私には関係ないじゃないか。
 言い聞かせ、飲みかけのペットボトルに口をつけた。瑠駆真と聡の置き土産。苦めの緑茶。目が冴える。手持ち無沙汰にボトルを撫でる。ひらがなとカタカナと、漢字とアルファベットが混ざり合う日本語。
 そう言えば瑠駆真とは、英語の成績を理由に夏休み前に喧嘩別れをしたんだっけ。
 思い出すとバカバカしく思える。なんであれ程までに腹を立ててしまったのだろうか?
 瑠駆真はどう思っているのだろうか? 八つ当たりのように喚く自分を、バカだと思っただろうか? 夏休み中に起こった出来事や澤村との件に振り回され、すっかり忘れていた自分に呆れているだろうか?
 よそう。瑠駆真の事を考えたって、私には何の役にも立たない。
 だが、昼間あれだけ賑やかだった分、急に静けさを取り戻した部屋は、なんだか異様だ。いつもならこれが当たり前なのに、部屋があまりに広過ぎる。







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